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官約移民に至る苦難の道のり
柏木 史楼

 ハワイで最初の日本人集団移民となった1868年の、いわゆる 元年者移民は失敗に終わったという見方が一般的ですが、前回は必ずしもそうとは言えないという見解を申し述べました。しかし、政権を掌握したばかりの明治政府は、移民〜正確には“海外出稼ぎ”に過ぎず、結果的に移民になっただけなのですが〜に対して、余り好ましくない印象を受けてしまったようです。当時の政府当局者の移民に対する意識は、勝手に海外に出かけたり、出かけようとして国際問題を引き起こし、はなはだ迷惑千万といったところでしょうか。

チャールズ・ジャッドらと日本を訪問したカラカウア一行

 日本政府の強い要求により駐在ハワイ公使を一時辞任していたバンリードの活躍もあって、1871年に「日本ハワイ修好通商条約」が締結され、元年者移民問題を平和裏に解決したことから、日本政府はアメリカ本土への移動を希望する元年者に旅券を交付しました。しかも、ハワイ駐在アメリカ公使ピアースに日本労働監督官を委嘱することさえしました。

 これによって、出稼ぎであれ、移民であれ、日本人のハワイ渡航は法的には可能になったのですが、実際はそう簡単にはいかなかったのです。

 ハワイ側も元年者に続く、新しい日本人の出稼ぎ者の送出を再三にわたって日本側に要請しましたが、結局、日本政府は一向に認めようとはしなかったのです。1885年に日本ハワイ労働移民条約が締結され、官約移民が実現するまで、事実上、移民の空白期間が続くことになります。

清国の奴隷を解放した大江卓

 その原因の一つに、1872年に起きたマリア・ルーズ号事件があります。この事件は上海から苦力(クーリー)231人を乗せた南米ペルーのマリア・ルーズ号が横浜に停泊した直後、船内の虐待に耐えかねた1人の中国人が脱走し、その窮状を訴える事件が起きました。日本政府は直ちに船内を捜索して中国人全員を解放し、マリア・ルーズ号の船長を捕らえて裁判にかけました。しかし、ペルーは大反発し、国際問題に発展します。ペルーは日本でも娼妓のような人身売買があることなどを指摘して、日本の苦力解放を不当としたのです。

 結局、奴隷制を廃止していた英米など、国際世論が日本の措置を後押しし、日本の正当性が国際的にも認められて解決に至るのです。しかし、その間、人身売買の禁止(もっとも、徳川幕府も人身売買を禁止してきました。戦国時代までの日本には奴隷制があり、戦国大名、特にキリシタン大名たちがポルトガル人などを通じて兵器や火薬などと引き替えに、多くの日本人を奴隷として世界中に輸出していたことは余り知られていませんが)とともに、奴隷的労働を禁止する意味で、労働契約を1年以内にするという太政官布告を出したため、実質的に1年以上の契約による移民の送出は不可能な状態になってしまったのです。

ロバート・W・アーウィンと妻イキ

 これによって、日本政府は海外移民よりも、まず北海道の開拓に力を注ぐことになります。この経験が日本の植民地政策の原型になりました。そして、台湾・朝鮮・満州への野望につながっていくことになります。

 しかし、ハワイ側は手をこまぬいていたわけではありません。1881年、第7代のカラカウア王は世界周遊の途次、日本にも立ち寄り、自ら移民の送出を要請、また、ハワイ政府はR・W・アーウィンを駐日ハワイ総領事兼代理公使に任命しました。こうしたことが功を奏したのか、日本政府も移民政策の転換に向かうことになります。84年にはハワイに日本領事館が開設されるとともに、イアウケア全権公使が来日して、移民について交渉し、日本側の内諾を得ました。

井上馨外務大臣

 このように日本・ハワイ関係が急速に好転した背景には、井上馨が外務卿(外務大臣)に就任し、アーウィン総領事と懇意になり、そのことが日本・ハワイとの親密化をもたらしていたのです。また、日本国内の問題としては、1884年に松方デフレと呼ばれた不況があり、海外出稼ぎによる外貨獲得が期待されるようになっていました。井上外務卿(後に初代内閣の外務大臣)、アーウィン総領事に三井物産の益田孝社長が加わり、日本ハワイ労働移民条約から約定書の起案、移民募集から送出まで、この3人を中心に進められていきます。この益田社長の存在が官約移民の参加者の出身地を特定することになりますが、これは次回に記述します。

 ついに1885年、日本ハワイ労働移民条約が締結され、労働条件などを定めた約定書も取り交わされます。政府間で定めた約定書に基づく移民であることから、この移民は「官約移民」と言われるようになります。そして、85年2月8日、官約移民の第1船シティ・オブ・トウキョウ号が944人(945人とも)を乗せてハワイに向けて出港しました。当時のハワイの総人口約8万人に対して、在留日本人は元年者の残留者を中心とした百十数人だけでした。そこに9倍もの日本人が到着したわけですが 、以後、ハワイの日本人は急増の一途をたどります。官約移民が廃止される94年までの約10年間に26回にわたり、2万9000人の日本人移民がハワイに渡ることになるからです。


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