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太平洋戦争以後の日系移民
柏木 史楼

【名誉回復したアメリカ市民としての日系人】

戦死した息子に授与された銀星勲章を受け取る母親

 1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏し、太平洋戦争は終結しました。8月30日、マッカサー連合軍最高司令官が厚木基地に到着、日本は事実上のアメリカ軍政下に入りました。進駐した連合軍の中には、多くの日系二世兵が通訳として参加しています。

 そして、アメリカ本土では日系人の抑留が解除され、ハワイから本土に強制収容されていた人たちも帰還を許されます。

 一方、ヨーロッパ戦線で終戦を迎えた日系兵士たちの所属する442連隊は、戦後処理を終え翌年の46年6月に帰国の途につきます。そして、ワシントンのホワイトハウスに招かれ、7月15日、降りしきる雨の中、政府高官だけでなく、日系兵士の活躍を新聞報道などで知らされて集まった一般市民らを前に、トルーマン大統領は歓迎演説で「諸君は敵と戦っただけでなく、差別とも戦い、そして勝ったのだ」と述べました。そして、自らの手で連隊旗に、第442連隊としては7枚目となる「大統領部隊感状」を括り付けたのです。これは合衆国陸軍では初めてのことでした。

 第442連隊の日系兵士たちは、血と汗と涙との引き替えで、国家に対するアメリカ市民としての忠誠心を証明したのですが、どうして日系人だけがそんな証明をしければしなければならなかったのでしょうか。同じ枢軸国側として戦ったドイツ系市民やイタリア系市民には、そうした犠牲は求められなかったのに。ヨーロッパ系アメリカ人に、東洋人、特に日本人に対する差別意識さえなければ、日系人が払わなければならなかった犠牲は必要がなかったはずです。

捕虜収容所から開放されハワイへ戻った日系人家族(1946年12月)

 戦争中、ハワイの日系市民にとって、経済的には恵まれた環境にありました。ハワイは太平洋戦線の兵站基地として、また、兵員輸送の中継基地として、未曾有の好景気となっていたからです。ハワイの日系人はアメリカ本土の日系人と異なり、大部分が強制収容所送りとならず、ハワイにとどまることができたこと、また、日系人には徴兵制がしかれず、志願制がとられた関係から、多くの若者が残留できたこと、そして日系人には比較的子供の数が多く、若い働き手が残っていたことが幸いし、日系家庭の多くが、基地や軍需産業で働くことによって、開戦前の数倍、十倍以上もの収入を得ることができたのです。

 また、当時、プランテーションから離れて、さまざまな小商売を始めていた日系一世たちも、好景気の恩恵を受けています。さらに、戦後、ハワイに戻った日系兵士たちには「GI権利法」によって、政府からさまざまな経済的支援を得ることができ、それによって大学へ通ったり、ビジネスを始めたりすることができたのです。

 これらのことによって、ハワイの日系人社会は大きな変動が起こりました。それまで日系人社会の指導的役割を果たしてきた一世たちが一線から退き(指導者と見られていた日系人のほとんどが、アメリカ本土の収容所に送られていた)、二世たちが指導的役割を持つようになったことです。そして、完全にアメリカナイズされた三世たちが次第に影響力を持つようになっていきます。日系市民社会が精神的にも文化的にも、アメリカ社会への同化を果たすことになります。そして、経済界だけでなく、司法界、政界へと進出し、日系の連邦議会議員も誕生しています。

除隊通知を受け取った日系米兵

 1946年にはアメリカへの入国許可の法律「GI婚約者法」ができたため、日本を占領していたアメリカ兵の婚約者が渡米できることになりました。この法律を一般的には「戦争花嫁法」と言っています。ハワイにも五、六千人の戦争花嫁が来ています。

 筆者はハワイではありませんが、戦争花嫁の一人を知っています。子供のころから毎夏、避暑に行っていた家の主婦の妹が、アメリカ中西部に戦争花嫁として渡米していました。私が大学生のころ、夏休みにその家に行くと、その女性が男の子を連れて、滞在していました。子供は7、8歳だったでしょうか。その子は白人の父親の影響が強いのか、純粋の白人の子のように見えました。頭が良かったらしく、後にハーバート大学に入ったと聞いています。その子の成長を待って、彼女は酒におぼれた夫と離婚したということでした。どうやら、家計はずっと彼女が支えていたようです。彼女の場合は、家が貧しかったため、房総半島の漁師町から東京へ出て、キャバレーやバーなどでホステスとして働き、アメリカ兵と知り合って戦争花嫁(といっても、この場合の戦争は、朝鮮戦争のほうです)となったのです。戦争花嫁の一つの典型としてご紹介しておきます。

 1949年に日本人帰化法によって、それまでアメリカ国籍を与えられていなかった日系一世たちにも、ようやく国籍が与えられることになりました。これなども、日系二世兵士たちの犠牲の見返りであったというべきかもしれません。

 1959年にハワイはアメリカ合衆国の50番目の州となりました。その州昇格の賛否を問う連邦議会で、日系人が多いことを理由に、当初反対に回っていたテキサス選出議員が、442連隊がテキサス師団を救出した話を聞き、賛成に回ったというエピソードも残されています。

 翌年、ハワイ州公立学校で日本語教育が始まっていますが、これは日系人の働きかけもあったでしょうが、ハワイの観光事業が一大産業として発展しつつある過程で、復興目覚しい日本からの観光客を期待してのことかもしれません。はたせるかな20年後の1980年から日本人のハワイ観光が急増することになります。

 1967年に人種差別を撤廃した新移民法成立が成立し、アメリカ移民での東洋人差別がなくなり、建前としては平等の扱いとなりました。

 1988年に強制収用された日系人に対する補償法が可決され、賠償が支払われました。この賠償は、戦後日本に戻った人たちにも支払われています。

 そして、2000年6月、442連隊の元兵士19名に「議会名誉勲章」が贈られました。55年後の遅すぎた叙勲です。あれだけの多くの犠牲を出しながら、輝かしい戦果を挙げた442連隊だったのに、最高の「議会名誉勲章」を受賞したのが、たった一人だったことは、前回記述しました。まあ、いろいろな面で、第二次世界大戦の戦争責任について、あいまいな態度で済ましている日本政府よりかは相当、立派ですが。

 ハワイでは1972年に観光収入が軍事、砂糖、パイナップルを抜き、初めて首位に躍進しました。1959年のアメリカ本土からのジェット機の就航、そして、1970年のジャンボ機の就航という、航空機による短時間・大量輸送時代によって、それは実現したのです。そして、戦後復興を果たし、高度経済成長期に入っていた日本からの観光客の増加も大きな力になっています。逆にパイナップル産業は1994年に、産業としての歴史を終えています。

【最後に言い訳を】

 駆け足で、戦後のハワイ日系移民の歴史めいたことを記述しました。このシリーズは12回連載という約束で始めたものですが、筆者の不注意で回数が増えてしまい、担当者から、掲載する写真の用意がないと叱られてしまいました。下手な文章だけではだれも読んでくれないと言われると、反論のしようもありません。このへんで打ち止めにしなければならないのですが、その前に一つ言い訳をしておきたいと思います。

 それは日系移民の歴史と言っておきながら、あまり移民の人たちの実生活の様子を描いていないということです。多くの文献を読むと、プランテーションでの生活は、長時間の重労働、低賃金などという3Kの典型的なもののように描かれています。そのことを象徴的に表しているのが、日系移民の人たちがサトウキビ畑での作業歌として歌い継いできた「ホレホレ節」があります。

 「はわい はわいと 夢見て来たが 流す涙も キビの中」

という歌詞からも、プランテーションでの労働の厳しさ、辛さがしのばれます。熱帯の炎天下での農作業は、けっして楽でない労働であっただろうと思います。

 しかし、ハワイ移民は賃労働移民だったことを考えるとき、厳しさ・辛さは開拓移民とは質的に異なるものだったと思います。荒れ果てた土地や、密林を切り開いて農場をつくるという、南米の開拓移民は、それこそ命懸けだったとも言えます。たとえば、南米のペルーに入植した開拓移民団が、全員消息不明になってしまったケースさえもあるのです。そのほかにも、あまりにも過酷な開拓条件のために開拓途上で挫折し、開拓団だけでなく家族が散り散りになったなどの悲劇的な移民団も少なからずあったのです。こうした開拓移民に比べれば、賃労働移民は、少なくとも命懸けという心配はなかったということができます。

 ハワイでも水路工事などの落盤事故で、何人かの日系移民が犠牲になるなどの悲劇はありました。また、プランテーション経営者や白人監督官の人柄や性格によって、待遇面は千差万別で、非人間的な扱いをされる事例もなかったわけではありません。賃金でも、アメリカ本土と比較すると、低額であったことも確かです。しかし、日本での女工哀史や、炭鉱、土木建設などでの劣悪な非人間的な労働環境、さらに戦前の小作人や山里の農村などの農作業は、それこそ朝から日暮れまでの厳しい農作業がありました。

 誤解のないようにことわっておきますが、けっしてハワイの日系移民の労働が楽だったと言っているのではないのです。ただ、そうした労働が、半世紀以前には、日本においても例外的なものではなかったということを言いたいだけです。特に女性の場合は、日本における男女差別がそのまま持ち越され、プランテーションでの労働に加えて、家事・育児など、さらに厳しい生活を余儀なくされていました。女性たちは、もちろん戦前の日本の女性たちと同じように、妻として、娘として、よく夫や兄弟たちを助け、もくもくと苦難に耐えてきました。戦後、日系人がハワイで社会的地位を急速に高めていきますが、それはほどんどが男性に限られたことだったことに注意が必要です。

 それでも三世、四世の時代になると、ハワイの日系社会も、さらなる変動が起きています。若者は新しい職を求めて、どんどんハワイからアメリカ本土に移住し、女性たちも日本的な家族的紐帯から解き放たれ、人種を選ばずに結婚の相手を選んでいます。もう完全にアメリカ市民であり、日系人という言葉は外見的な面を除けば、実質的な意味を失っているとさえ言えます。

 最後に、ハワイの日系移民の歴史を見るとき、国とは、民族とは何か、愛国心はどうやって生まれてくるのか、などなど考えさせられました。日本の外務省は、少子化によって将来、日本の人口が大幅に減少しても、一切移民を受け入れない方針のようです。果たして、それでよいのかどうか。ハワイにおける日系移民の歴史が、これらの設問に正しい回答を与えてくれるように思います。

 末筆になりましたが、ご愛読ありがとうございました。

 

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