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本の世界(1) マーク・トウェイン
近藤純夫

ちょっとぴり皮肉の効いた格言
 マーク・トウェイン(*1)といえば、『トム・ソーヤーの冒険』や『ハックルベリー・フィンの冒険』でお馴染みですが、新聞記者(*2)だった時代にハワイに滞在していたことはそれほど知られていません。1866年、31歳のとき、本土でのすさんだ生活を精算してハワイへやって来たトウェインが本社に投稿した記事をまとめたものが『ハワイ通信(Letters from Hawaii)』という本です。なかでもキャプテン・クックに関する話は臨場感にあふれています。なにしろ、クックが殺されてから70年ほどしか経っていませんから、子どもの時にその様子を親から聞いている者がまだ生存している時代でもありました。「どうやらあの洞窟のなかに、まだクックや英国海軍の遺骨が眠っているらしい」とか、「この小屋にはクックの心臓がしばらくの間放置されていたらしい」といった表記がそこかしこにあります。

*1 本名サムエル・ラングホーン・クレメンス。マーク・トウェインのペンネームは1863年から使い始めました。
*2 サクラメント・デイリー・ユニオン紙

マーク・トウェイン

 クックのできごと以上に彼の好奇心を釘付けにしたのは当時、盛んに噴煙を上げていたキラウエア火山のハレマウマウ・クレーターでした。そこへ到達するまでは、「噴火などたいしたことはない」などと、いろいろ不平を言っていたトウェインですが、夜に煌々と炎が立ちのぼる様子を見て前言を取り消しました。「われわれの前方3キロ近く、両脇は1キロ近くの壮大な奈落の床に、ガスが立ちこめ、火のカーテンを出現させていた。噴火口の遠い彼方にも炎が立ちのぼっているのがみえる。おそらく10キロ以上も先だろう。それらが網の目のようにからみ合いながら、真っ暗な空を切り裂いていく」現在は申しわけ程度に噴煙を出しているハレマウマウ・クレーターですが、当時は現在のプウ・オー・オーのように盛んに活動していた様子を、興奮ぎみの彼の口調から知ることができます。ちなみに、このとき彼はボルケーノ・ハウスに宿泊していますが、この宿泊施設は、現在とは位置が少し異なった場所にありました。

マーク・トウェイン・スクエア

 マーク・トウェインを記念した物はハワイにはそれほど多くありませんが、もっとも知られているのはハワイ島の南、ナアレフの町に近いワイオーヒヌにあるマーク・トウェイン・スクエアでしょう。ここには巨大なモンキーポッドの木があり、木の周囲にはマーク・トウェインが書いた著名な格言を看板にしてそこかしこに貼りつけてあります。ちなみに、この公園の駐車場側にあるのが、マーク・トウェインが植樹した木(*3)で、建物の正面にあるベンチのある木は違います。彼はナアレフに滞在中(*4)、馬でよくこの周辺を散歩していました。

*3 実際には、彼の植えた木はこの地を襲った暴風で倒れてしまいました。現在の木は、倒木から生えた木が成長したものです。
*4 捕鯨産業が盛んだった時代のマウイ島ラハイナにもしばらく滞在していました。


スクエアの一画に置かれたベンチ

 マーク・トウェインはハワイ諸島のことを、「大海原に浮かぶ世界でもっとも美しい島々」と呼びました。また、島々の名所にアメリカの名所をあてがっています。たとえばマウイ島のイアオ渓谷にある針峰プウ・ククイ周辺の断崖を「太平洋のヨセミテ」と呼び、カウアイ島のワイメア渓谷展望台からの景観を「太平洋のグランドキャニオン」と呼んでいます。マウイ島のハレアカラのクレーターで雲海から朝日が昇るを見たときは「わたしがこの目で見た景色のなかで、もっとも崇高なものだ」ということばで感動を表現しています。トウェインはよほどハワイの自然が気に入ったのだと思います。なかでもホノルルの町が好きだったようで、捕鯨に触れた箇所では次のように言ってます。「ホノルルの町から捕鯨業が消えたら町もたちゆかなくなるのではないか。しかし肥沃な土地だから、サトウキビ畑でもやればまた活気を取り戻すだろう」


トウェインが植えたモンキーポッドの木

 わずか4ヶ月ほどの滞在でしたが、本土へ戻ったトウェインはハワイ諸島での日々を語った講演で大成功をおさめ、後の大文豪への道を歩み始めます。その後、『ハワイ通信』は何度か書き改められ、質の高い作品になっていったというのが、大方の評価ですが、その一方で、先住ハワイ民やフラなどの伝統ハワイ文化を蔑視する傾向が強まるなど、白人文化の域を出ない視点には批判も生まれています。いずれにしても、彼の文章がきっかけで、当時のアメリカ本土にハワイ諸島に対する関心が強まったことは事実です。たとえばコナ・コーヒーの存在が知れ渡ったのも、彼が気に入り、盛んにそのことを書いたのが一因だと言われています。マーク・トウェインの作品を通して、古き良き時代のハワイを振り返ってみてはいかがでしょう。

次回は『宝島』で知られるスティーブンソンと『サンドイッチ 諸島での6ヶ月』の著者イザベラ・バードを紹介します。

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