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自己責任による自由移民
柏木 史楼

【自己責任による自由移民

浄土寺(ラハイナ)

 1900年に移民会社による民約移民が廃止になり、ハワイへの移民は、自由移民だけとなりました。というのも、実は官約移民・民約移民の時代を通じて、もう一つの移民の方法としては、自由移民という方法(この他にも、密入国などの不法な手段による渡航がありますが、これは例外です)が法的には並存していたのです。

 自由移民とは、渡航費用が自己負担であり、従って渡航先での就職、居住も自己責任で決めなければならいというもので、1885年の日本・ハワイ移民条約の締結以後は自由移民も法的には認められていたのです。しかし、明治政府は日本人移民ハワイ渡航約定書に基づく官約移民しか認めなかったこともあって、自由移民はごく一部の特殊なケース以外はあまり行われなかったのです。

浄土寺の仏像(ラハイナ)

 1893年のハワイ革命によって、官約移民が廃止され、民約移民に移行するのと並行して、自由移民によるハワイ渡航者が徐々に増えていきました。ハワイに残留した日系移民の中には、経済的に豊かになった者も出てきて、親類や知人の子弟を迎い入れるということもありました。しかし、自由移民の多くは出稼ぎもしくは、アメリカ本土への再渡航を目的ととしていたようです。また、このころから、仏教や神道の布教のための宗教関係者の渡航や芸能関係者の一時渡航も増えてきます。もちろん、こうした人たちの中には、結局、半生をハワイで過ごし、骨を埋める人も少なからずいました。

 民約移民が廃止され、自由移民のみになってみると、日本からハワイに渡航するよりもハワイからアメリカ本土へ転航するものが多くなっていきます。特に、1898年にハワイがアメリカの属領となると、ハワイはアメリカの準国内という扱いになりましたから、ハワイからアメリカ本土への渡航は、比較的容易になったためです。

19世紀末のパールハーバー

 アメリカがハワイを属領にした理由は、1898年に起きた対スペイン戦争にありました。大航海時代にポルトガルとともに世界を二分していたスペインは、19世紀以降、世界に散在する植民地を維持するだけの力を喪失していて、新興国アメリカに一方的に攻めまくられ、敗北してしまいます。戦争の目的はともかく、結果的にはこの戦争によってアメリカはスペインの植民地だったフィリピン、キューバ、プエルトリコ、グアムを奪い取ります。フィリピン、グアムを統治するためには、ハワイは軍事戦略的に重要な基地となったのです。以後、軍事基地経済がハワイ経済を支える重要な柱の一つになっていきます。

 ハワイがアメリカの属領となったため、ハワイ経由による日系人のアメリカ本土への移住が増大してくると、それを制限していこうとする動きが出てきます。以後、日系ハワイ移民の動向は、ハワイ内での問題ではなくなり、アメリカ本土における排日感情や連邦政府の対日政策に左右されていくことになるのです。

【紳士協約―自由から制限へ】

 日本人の海外移民は、経済が好況時や戦時には下火になります。特に戦時は、非常時ということもあって、海外移民は極端に減少しますが、戦争が終わると、その反動で急増します。それは戦時中は戦費による一時的な好況があり、戦争が終わると、反動としての不況に陥るという経済的理由もかかわっています。

 1904(明治37)〜1905(明治38)年の日露戦争が、その典型でした。日露戦争が終わると、戦後の不況で、満州からの復員者を中心として失業者があふれました。そのため、失業者の多くが北米への出稼ぎを目指すようになりました。しかも、サンフランシスコなど、西海岸の地域に集中的に日本人が渡航し始めたため、既に発生していたアメリカ本土での排日もしくは反日意識の火に油を注ぐような結果をもたらしました。日本人は、低賃金で真面目に働くために、白人労働者の失業を招いているというのが理由でした。

 その背後には、日本が大国ロシアに曲がりなりにも勝利したこと、最初はアジアからロシアの影響力を排除したことを歓迎していたアメリカ政府も、アジア特に中国での利権拡大の野望を抱いていたこともあって、日本に対する警戒心に変わっていったこともあったようです。

 連邦政府は、日本人渡航者のアメリカ本土への直接入国を制限するようになりますが、その裏をかくように、ハワイ経由による転航者が急増するようになります。ハワイは属領とはいえ、いったん、ハワイに入国してしまえば、アメリカ本土への転航が比較的容易だったためです。そのため、1907年2月に大統領令によってハワイからの米本土への転航を禁止しました。

写真結婚(山口県の写真館)

 そして、ついに1908年日米紳士協約によって新規に日本人移民がアメリカ合衆国へ入国することが禁止されることになったのです。この協定は、1907(明治40)年11月から1908(明治41)年2月まで、7回にわたる日米間の書簡のやりとりによって、決定していきました。その内容は、日本は移民中の父母・妻子、農業定住希望者以外には旅券を発行せず、その他の目的の旅行者の旅券発行は厳重に制限するということを約束した物でした。つまり、日本側はハワイを含めたアメリカへの渡航を自主的に制限する というものです。ただし、一時帰国の再渡航者と現地居住者による近親者の呼び寄せは例外的に認められました。この例外規定によって、近親者移住や「写真結婚」による花嫁呼び寄せ制が定着していくことになるのです。

 しかし、こうした新規移民の制限が行われ、例外的に花嫁呼び寄せ制が認められた結果、日系人の間に定住意識が生まれ、日系社会が安定期に向かっていくことになります。何よりも呼び寄せによる多くの花嫁が移住してきたことにより、日系人の男女比率が均衡するようになってきたということが、ハワイにおける日系人の社会的地位を高める上で、大きな役割を果たすことになったということもできるでしょう。


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