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移民規制で生まれた写真花嫁2万人
柏木 史楼

【最終の移民形態―呼び寄せ移民】

 前回までのおさらいになりますが、ハワイ王朝は、1893年にアメリカ軍艦ボストン号から上陸した軍隊の力を借りた白人たちによる臨時政府の樹立と、リリウオカラニ女王が退陣させられたことによって消滅しました。翌年の94年に判事だった白人のサンフォード・ドールがハワイ共和国樹立を宣言して大統領に就任し、この年を境に、日本人のハワイへの渡航は、官約から民約へと切り替わりました。その民約移民も1900年にハワイがアメリカの準州になるにおよんで廃止され、自由渡航時代に入ります(とはいっても、契約移民以外の渡航は、以前からなかったわけではない)。しかし、アメリカ本土における排日運動の影響を受けて、07年に日本からの移民を原則禁止する紳士協定が日米間で結ばれたため08年以降、組織だった移民は停止されてしまいます。ここに至って集団移民の時代は終わったということができます。

パイナップル農場と日系人労働者

 しかし、集団的移民に代わって、個人が移民法の枠内で親類や肉親を呼び寄せる「呼び寄せ移民」が活発化してきます。つまり、ハワイに定住した人が、兄弟姉妹、従兄弟、甥姪などの親類縁者、そして結婚相手をハワイに呼び寄せたのです。もちろん、この方法も当然、以前から行われていましたが、唯一残った、最後の移民の方法となったのです。

 結婚相手(ほとんどの場合が花嫁です)を呼び寄せる方法は、ハワイに定住した人が、見合い写真を自分の郷里の知人などに送って、結婚相手を探してもらうという方法がとられました。若い女性たちが、会ったこともない男性のもとに、たった1枚の写真を頼りに長期にわたる船路を親の付き添いもなく出かけることは、大変心細いことであったはずです。

 当時、日本の農村は、地主制度が拡大発展し、自作農の小作農化が進み、余剰労働力を抱えて全般的に疲弊していました。都会にも農村の余剰労働力を吸収するだけの労働市場もなく、多くの海外移民を生み出す背景がありました。ハワイを含めたアメリカへの移民の制限がもたらされると、南米や東南アジアへの移民、また朝鮮半島や満州などの植民地への移住が志向されていきます。

 農村の娘たちも親の家計を助けるためと口減らしのために、劣悪な労働環境と低賃金の製糸工場などに出稼ぎに行くか、女中奉公、最悪の場合は女郎屋に身売りしなければならない状況にありましたから、ハワイで成功しているらしい男性と結婚することは、極貧からの脱出と考えられていたのかもしれません。

パイナップル缶詰工場で働く日系人女性

 しかし、夢と現実との乖離は大きなものでした。ハワイに到着してみると、若くて頼もしそうに写っていた写真とは似ても似つかぬ中年の貧相な男性が、彼女らを待っている場合が少なからずあったのです。実は、借り着で撮影して金持ちのように装ったり、若いころの写真を送ったり、知り合いの若い男の写真をもらって、それを自分だと偽って送ったりする場合さえもあったのです。彼女たちがハワイへ入国できるのは、ハワイ在住者の妻であることが前提でしたから、相手がどうであれ法的には婚姻関係にあったのです。しかも、共に生活してみると、日本で聞いたのとは正反対のような窮乏生活であり、その落差に精神的にも打ちのめされることになります。そして、プランテーションでの過酷な労働が待ち受けていました。写真花嫁の中には、初めて見る夫に失望して、そのまま逃げ出してしまったり、離婚する者もいましたが、多くの者が踏みとどまり、苦労をいとわず夫を助け、多くの子を産み、その子らを立派なアメリカ市民を育て上げていくことになります。

 このように、1924年の移民全面禁止までに約2万人の『写真花嫁』がハワイに渡航しました。1908〜24年のいわゆる「呼び寄せ移民時代」の移民は6万1000人と言われていますから、その三分の一が『写真花嫁』だったことになります。

【第1次産業経済から第3次産業経済への転換】

小規模ながらサトウキビ産業は生き残っている

 ハワイは王朝の消滅とアメリカへの併合という政治体制の大変革と相前後するように、経済的にも大きな変動が起こっていました。まず、サトウキビプランテーションの衰退と、それに代わるパイナップルプランテーションの興隆、そしてハワイの米軍基地化、さらにワイキキをはじめとする観光開発の始まりです。そして、これらの経済環境の変動は、日系移民社会に大きな変動をもたらすことになります。プランテーションからの離脱と都市への移住、職業の多様化、そして何よりも日系人のアメリカ化です。

 まず、パイナップルプランテーションは、ハワイ共和国大統領に就任したドールが、1901年にオアフ島でハワイアン・パイナップル社を設立したことから始まると言われています。パイナップルの栽培は、サトウキビプランテーションほどには人手を必要としなかったことや、プエルト・リコや朝鮮半島、フィ リピンからの労働力の導入があり、日系移民のサトウキビプランテーションからの転職が少なかったことがあります。

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 また、「呼び寄せ移民時代」は、日系移民によるサトウキビプランテーションでの労働争議多発の時代でもありました。官約・民約時代を含め、契約移民は住居の提供や医療費は雇い主の負担でした。こうした契約労働は、奴隷労働に準じるとして契約そのものが無効とされてしまうのです。当然、雇い主の負担分がなくなれば、その分は賃金に反映されなければならないのですが、必ずしもそうはならなかったのです。また、アメリカ西海岸との賃金格差も歴然としていました。ハワイからアメリカ本土への転住をめざす日系移民が後を絶たなかったのも、そのことを証明しています。

 そうした中でハワイに定着化しようとしていた日系移民たちは、プランテーションにおける労働条件の改善に目を向けるようになってきました。そして、呼び寄せ移民時代に2回にわたる大きな労働争議が起きています。結局は、切り崩しにあって労働争議そのものは日系移民側の敗北に終わりますが、一定の労働条件の改善や賃金の引き上げを実現することができました。しかし、同時に日系移民が労働争議で見せた団結力や統率力を見て、白人社会は強い警戒感も持つようになりました。そして、1924年の移民法の改正−日系移民の全面禁止につながっていくことになります。


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