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大航海時代の探検家たち(3)
近藤純夫

コツェブー

オットー・フォン・コツェブー

 以前にお話ししたクルーゼンシュテルンの世界周航は成功裡に終わりましたが、課題がひとつ残りました。北西航路の発見です。当時、列強はこの航路の発見に必死でした。北大西洋からカナダの北極海諸島を抜けて太平洋に出る航路が見つかれば、その後の軍事的、経済的支配に大きな影響力を行使できると思ったからです。

 そこで、ロシアではクルーゼンシュテルンの探検航海に同行したオットー・フォン・コツェブー(Otto Evstafevich Kotzebue 1788‐1846)をキャプテンとする新たな探検航海が計画されました。ちなみに、彼の兄アウグストは劇作家として歴史に名を刻んでいます。この計画に用いられた二本マストの帆船ルーリック号は、ロシアの大富豪であったロマノフ伯爵が個人的に準備した船です。ルーリックは1815年7月に、クルーゼンシュテルンと同じクロンシュタットの港から旅立ちました。

 同行したのは、博物学者であり医者でもあったエストニア人のヨハン・エシュショルツ、文学者で植物学者のフランス系ドイツ人のアデルベール・シャミッソーと、画家のルイ・コリスなど総勢27名でした。コツェブーはクルーゼンシュテルンが発見できなかった北西航路を求めてアメリカ北西海岸全域を調査することになりました。

アデルベール・シャミッソー

 1815年9月、イギリスを経てカナリア諸島のサンタ・クルスに投錨。12月にはブラジルのサンタ・カタリーナ島に着きます。シャミッソーとエシュショルツはカツオノエボシを観察し、世代によってまったく違った形をしていることを発見しました。「クラゲの世代交代」と名づけられた彼らの学説は世界を驚かすことになります。また、スポンサーであったロマノフ伯爵の名を取り「ロマノフ・ココス」と名づけた美しいヤシの木をはじめ、数多くの植物を発見しています。

 1816年2月に南米先端のホーン岬を越えてチリ沿岸を北上し、同国コンセプシオン湾のタルカワノに到ります。この間、クジラやイルカを観察したり、巨大な海藻を採集しました。翌3月、コンセプシオン湾を発ち、イースター島に到着。ここには数時間しか滞在しませんでしたが、ロシアン・イースターと名づけた近くの島で数種類の植物や鳥類、爬虫類などを発見しています。

 6月にはマーシャル諸島とギルバート諸島の東で2つの島を発見し、クトゥソフ島とスハロフ島と名づけました。その後、カムチャツカのアヴァカ湾に入ります。翌7月、チュコト半島にほど近いセント・ローレンス島に達し、ベーリング海峡の北部で北西航路らしきものを発見したと喜びますが間違いでした。その後、アラスカ沿岸で入江を発見し、コツェブー入江(コツェブー湾)と名づけます。また、入江のなかにエシュショルツ湾を命名、島にはシャミッソーと名づけ、ここに投錨しました。島ではマンモスの化石を発見しています。その後、シベリア沿岸を航海し、チュクチ族に出会ったあと、再びセント・ローレンス島へ向かいます。

ルーリック号

 同年10月、サンフランシスコに入港。シャミッソーはカリフォルニアアシカや、ハチドリなど、数多くの鳥類を採集しました。翌11月1日に出港、一路サンドイッチ諸島(ハワイ諸島)へ向かいます。4週間後にオアフ島に到着し、カメハメハ一世の篤い歓迎を受けます。このとき、シャミッソーはハワイの宗教や儀式に強い関心を持ち、その後、彼は西欧人として初めてハワイ語の文法書を書くことになります。

 同年12月にサンドイッチ諸島を出航し、マーシャル諸島へ向かいます。ここで、ニュー・イヤー島やロマノフ諸島、テルネイ群島などを発見しました。その後、1817年の3月にクトゥソフ島とスハロフ島に再び寄港し、翌4月にアリューシャン列島のウナラスカ島に着きます。この島で動植物を採集した後、アリュート人15人を乗せて出航。7月にはベーリング海峡を北上しようとしますが、氷原に阻まれたことと、コツェブーが健康を害したこともあり、ウナラスカに引き返します。

 その3ヶ月後の10月1日、船は再びサンドイッチ諸島のオアフ島に投錨します。2週間後に島を発ち、マーシャル諸島を経由してマリアナ諸島のグァム島へ向かいました。シャミッソーたちはここで棘皮動物を収集し、帰国後、ベルリン博物館に納めました。

コツェブーが訪れた当時のフラの光景

 翌1818年1月、フィリピンのマニラ湾に投錨し、シャミッソーはタール山で昆虫を採集します。3月には南アフリカのケープ・タウンに入港し、先に投錨していたフレシネ率いる探検隊と親交を深めます。8月にフィンランドに帰港し、コツェブーの探検航海は終わりました。

 1823年、コツェブーはプレドリヤティヤ(冒険)号という船で再び世界周航の旅に出ます。トゥアモトゥ諸島やタヒチ、サモア諸島、マーシャル諸島を巡り、カムチャツカに北上後、アメリカ北西岸を訪れました。この航海には再度エシュショルツが同行し、さまざまな博物学的成果をあげ、1826年7月に帰還しました。

 ふたつの航海後、彼らはそれぞれ航海記を出版しています。コツェブーが『世界周航記』(1821)を出版後、シャミッソーはそれを補う形で『世界周航』(1835)を出版。エシュショルツは『動物学地図』(1831)を、画家のコリスは『世界周航の絵画記録1815-1818』(1826)を刊行しました。

シャミッソー

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 シャミッソー(Adelbert von Chamisso 1781‐1838)につていは「ハワイのことば(1)」で少し触れました。彼は西欧人として最初にハワイ語の文法書を書いたことで知られています。フランス貴族の生まれですが、フランス革命のときに難を逃れてプロイセン(ドイツ)に渡り、1796年以降ベルリンに暮らしました。しかし、ナポレオンの支配がプロイセンに及ぶと、彼はふたつの祖国の板挟みとなって苦しむことになります。当時の苦悩は『影をなくした男』(1814)で知ることができます。その後に、詩集『サラスとゴメス』(1829)を発刊するなど、文学者・詩人として活躍します。また、植物学者としてコツェブーに同行したように、植物にも造詣が深く、ベルリン植物園の園長を務めたこともありました。

次回は「大航海時代の探検家たち(4)」と題し、フレシネの世界航海についてお話しします。

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