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ハワイ・プランテーション・ビレッジ
Hawaii's Plantation Village

近藤純夫
日本人移民が暮らした建物

 オアフ島ワイパフにあるハワイ・プランテーション・ビレッジ(HPV)はサトウキビ農園で働いた各国移民の歴史を学べる貴重な文化施設です。HPVはサトウキビ農園の労働者が暮らした住居を中心に、日々の暮らしに深く関わった施設を紹介することを目的として1992年に開設されました。

 ここには1800年代から1940年代にかけてハワイへやって来た中国人、ポルトガル人、プエルト・リコ人、日本人、沖縄人、フィリピン人、朝鮮人などの農園労働者が暮らした建物が精密に復元されています。建物内には当時を彷彿とさせる家具や寝具、遊具、宗教関連の備品などがあります。敷地内には公衆浴場や神社、集会場、医療施設などもあります。小規模ながら商店もあり、つけ払いで購入し、給与から天引きされるという仕組みを作って労働者が農園内ですべて賄えるようになっていました。裏を返すなら、外へ出て他のことに関心を抱かせないように気を配っていたとも言えます。そのほかにも、中国の集会所やパン屋、相撲の土俵、西欧人と接触する以前のハワイの伝統住宅などが復元されています。

商店、医療室、集会所などの共同施設

 園内はボランティアによる有料のガイド・ツアーで回ります。ツアーは毎週、月曜日から土曜日まで、午前10時から午後2時の間、およそ1時間間隔で行われます。ツアーの最初はトンネルをくぐる儀式です。タイムトンネルと名づけられたこの空間を経て過去の世界へ旅立つという仕組みになっています。

 1850年に王立ハワイ農業協会が設立され、王国は、減少しつつあるハワイ人に代わる労働力として外国人労働者を導入することに決めました。その第1陣は中国人労働者でした。しかし、1880年代に入ると中国人のハワイ全体に占める人口が4分の1にもなったため、中国移民を抑制し、代わりにポルトガル人やその他の国からの移民を雇い入れるようになりました。その後、アジアを中心とした労働賃金の低い国からの労働者を積極的に導入しましたが、どの国からの労働者も契約期間を終えると帰国するかサトウキビ農園での仕事を辞めてしまったので、農園の労働力はつねに不足しました。また、言葉の壁があったために意思疎通がうまくいかず、労働も厳しかったので、農園から脱走したり、警察に捕まる者もかなりの数に達しました。

 1852年から1946年にかけ、総数にして実に40万人近くもの労働者がハワイのサトウキビ農園で働きました。あまり知られていませんが、上記の国々以外に、ギルバート諸島(*1)やノルウェー、ドイツ、スペイン、アフリカ諸国、ロシアなど、多くの国から労働者はやって来ました。1876年以前は労働者の実に80%ほどがサトウキビ農園で働いていました。

*1 現キリバス共和国の1部。「キリバス」はギルバートの現地語読み。

日本人労働者の公衆浴場

 農園労働者たちは、低賃金で厳しい仕事をさせられた上、兵隊のように日々の生活をコントロールされるという過酷な環境を共有してきました。そのため彼らには、一種の助け合い精神のようなものが生まれました。また、英語を母国語としない人たちのために、ピジン英語という簡潔な言葉が生まれました。労働者の大半は故郷へ戻らず、ハワイに残りましたが、各国移民に端を発するボーダーレスな文化は、このような農園労働者の歴史を背景に育まれたといってよいでしょう。

 サトウキビ産業はハワイ財政の屋台骨を支え、巨大な収益をもたらしましたが、その大半は経営者や資本家、政治家の大半を占めていた白人集団に独占されたという事実も見逃せません。移民の歴史とその文化は今日のハワイ文化に不可欠の要素ですが、彼らが一市民として正当な権利を獲得するには乗りこえるべき多くのハードルがその先に待ちかまえていました。

 プランテーション・ビレッジの運営は、隣接するワイパフ文化庭園公園(The Friends of Waipahu Cultural Garden Park)が行っています。約20ヘクタールある公園の敷地にはカロ(タロイモ)の水田(ロ・イ)があり、ここにはアエ・オ(クロエリセイタカシギ)など、ハワイ固有の鳥類も数多く見られます。

 以下に各国の移民状況を簡単に記しておきます。

ホレホレ節の歌詞を解説するガイド。仕事の辛さが歌に込められている

中国人
  中国からの労働者はほとんどが男性でした。彼らの一部は契約労働を終えるとハワイ人の女性と結婚し、ハワイに残りました。1852年から1897年にかけ、約4万6千人がやって来ました。

ポルトガル人
  一般にポルトガル人労働者と呼ばれる人たちはポルトガル本国からではなく、アゾレス諸島など、ポルトガルの植民地から訪れた人たちが大半を占めました。彼らは永住を前提にハワイへやって来たのです。当初は農園労働者でしたが、間もなく、ルナと呼ばれる現場責任者の地位に就きました。1878年から1913年にかけておよそ1万8千人がやって来ました。

プエルト・リコ人
  ポルトガル人と同じく、移民を目的として家族単位でハワイへやって来ました。その総数は1878年から1913年にかけ、およそ5千人です。

日本人
  日本からの労働者は独身男性が多かったため、その後、ピクチャー・ブライドと呼ばれる、写真による見合い結婚が行われました。日本人は1885年から1924年にかけ、もっと大きな移民集団を形成しました。

サトウキビ畑

朝鮮人
  朝鮮人の4割はキリスト教者でハワイで宗教の自由を得ようと考えた人が多くいました。1903年から1905年にかけて7千人ほどがハワイへやって来ました。

Hawaii's Plantation Village
住所:94-695 Waipahu Street, Waipahu
窓口:(808) 677-0110

トップページの画像はサトウキビ農園で用いられた蒸気機関車です。「ホレホレ」とは、トゲだらけのサトウキビの枯葉をむしり取る辛い作業を指します。
次回は、以前に紹介しましたハワイ固有のハイビスカスについて、もう少し詳しくお話する予定です。

【ハワイの歴史】
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